東京国際大学駅伝部の創設に関わり、「監督」として箱根駅伝に導いた横溝三郎さん。
2024年11月14日に、享年84歳で死亡しました。
死因は肝臓がんでした。
自身も大学駅伝選手やオリンピック選手として活躍した横溝三郎さん。
今回は、横溝三郎さんの経歴や生前の活躍ぶりについてまとめました!
【死亡】横溝三郎は何者?Wiki風プロフィール
2024年11月に死亡した東京国際大学駅伝部の監督・横溝三郎さんのプロフィールはこちら!
- 名前:横溝三郎
- 読み方:よこみぞ・さぶろう
- 生年月日:1939年12月9日
- 死去日:2024年11月14日
- 享年:84歳
- 死因:すい臓がん
- 出身地:神奈川区横浜市出身
- 学歴:中央大学
- 職業:元陸上選手・五輪選手・東京国際大学駅伝部監督
横溝三郎さんは、中学生から陸上を始め、中央大学の陸上部で活躍しました。
25歳の時には、東京オリンピックに出場しています。
2011年からは、東京国際大学駅伝部の総監督を務めていました。
2024年10月、東京国際大学は、箱根駅伝予選会を通過し、2025年の箱根駅伝の出場が決定。
その直後の2024年11月に、横溝三郎さんはすい臓がんで死亡しています。
高校生陸上で大活躍
1939年に神奈川県横浜市で生まれた横溝三郎さんは、中学生の頃から陸上競技を始めています。
横浜高等学校では、1年生からインターハイで活躍してきました。
2年目・3年目では5000mで連覇を達成し、1500mは4分02秒1と当時の高校新記録を達成しています。
その後も、5000mでは高校生で初めて15分を切るなど様々な記録を打ち立てました。
横溝三郎さんは、家庭的に恵まれておらず、大学まで行けるゆとりがありませんでした。
しかし、高校時代の活躍ぶりが様々な大学からのスカウトにつながりました。
中央大学時代
横溝三郎さんは、高校卒業後は中央大学に入学しました。
1年生の時に第35回箱根駅伝に参加し、チームは3年ぶりの優勝を飾ります。
その後も活躍を続けた横溝三郎さん。
在学中には4連覇を達成するなどチームの勝利に貢献しています。
小柄で箱根駅伝向きではない
しかし、連覇は簡単なものではなく、様々な葛藤や挫折もあったようです。
小柄ながら跳ねるような大きなストライドの走りは山登りには最も向かないタイプ。2年生だった60年のこの大会、何とか走り切ったが首位日大とは7分41秒の大差がついた。横溝氏は後年「悲しかった。箱根駅伝でなかったら途中でやめていた」と述懐している。しかし復路で3位から追い上げ、アンカーでの大逆転で6連覇の中大黄金期につなげた。
サンスポより
駅伝は絶対に諦めたら駄目。仲間への感謝も忘れない
サンスポより
横溝三郎さんの、どんなにつらくても絶対あきらめない、仲間を思う気持ちが長年の活躍につながっていました。
東京五輪に出場
1962年に中央大学を卒業後は、実業団のリッカーミシンに所属しました。
入社後も実業団駅伝などで活躍し、入社3年目となる1964年に3000m障害で東京5輪出場を果たしています。
選手引退後は、解説者・監督として活躍
横溝三郎さんは、現役引退後は、NHKラジオで8年、日本テレビでは17年と25年の長きに渡り箱根駅伝実況中継の解説者を務めています。
駅伝愛にあふれた解説が好評で、ファンからは「ミスター駅伝」と親しまれていました。
横溝三郎さんは、松下電器(現パナソニック)女子陸上部監督などを歴任。
2011年に東京国際大学で駅伝部を創設し、総監督に就任しました。
その後、13年にわたり東京国際大学の駅伝部を支えました。
【駅伝】横溝三郎は東京国際大学監督
横溝三郎・指導者としての経歴
- 1972~1976年:中央大学陸上競技部コーチ
- 1998~2013年:松下通信(現パナソニック)女子陸上競技部監督、総監督、顧問を歴任
- 2011年~2024年:東京国際大学駅伝部総監督、監督を歴任
1998年~2013年:松下通信陸上競技部監督
横溝三郎さんは、松下通信(現パナソニック)女子陸上競技部において、監督、総監督、顧問を歴任しました。
2011年東京国際大学駅伝部の総監督に就任
横溝三郎さんは、2011年4月に東京国際大学を創部。
71歳で駅伝部の総監督に就任しました。
中央大学の後輩である、大志田秀次さんとともにチームを立ち上げました。
創部5年で箱根駅伝出場
東京国際大学は、創部5年目となる2016年に箱根駅伝初出場を果たしています。
その後、2018年に2度目の箱根駅伝出場、2020年の箱根駅伝では5位入賞し、シード権を獲得しています。
さらに2021年には出雲駅伝で初出場初優勝を果たしました。
わずか10年で強豪の仲間入りを果たすなど、指導者としても手腕を発揮しています。
2023年、監督に
2022年には、ともに東京国際大学を箱根へ導いた大志田監督が退任。
横溝三郎さんは2023年から監督としてチームを指導してきました。
亡くなる直前、箱根駅伝予選会に
2024年10月の予選会では、チームは8位で予選を通過し2年ぶりの箱根駅伝本選出場を決めています。
横溝さんは、体調を悪化させていたものの会場に姿を見せ、選手達を労っていました。
まさに生涯現役と言える駅伝人生でした。
横溝三郎の記録(箱根駅伝・オリンピック)
横溝三郎さんは、現役時代は、箱根駅伝に4回出場。
オリンピックにも出場するなど、「選手」として活躍していました。
箱根駅伝での記録
横溝三郎さんは、箱根駅伝に4回出場しています。
中央大学時代の箱根駅伝での横溝三郎さんの記録は、以下の通りです。
横溝三郎の成績
- 1959年(第35回):3区 2位
- 1960年(第36回):5区 8位
- 1961年(第37回):6区 2位
- 1962年(第38回):10区 1位
横溝三郎さんが在学中(1959年~1932年)は中央大学は4連覇を達成!
箱根駅伝史上最長の6連覇に多いに貢献しました。
現在もこの「6連覇」の記録は破られていません。
横溝三郎さんは、個人では、4年次に10区区間賞を獲得しています。
36回大会は、かなりつらかったようで、ご本人も以下のように語っています。
「体はフラフラして夢遊病者みたい。隣で先輩が怒鳴っている内容が分からない」状態。歩いてはまた走った。絶対にたすきを途切れさせたくない—。その思いだけでなんとか完走したがタイムは大幅に遅れた。優勝をつぶしてしまったという自責の念に駆られ「こんなつらい思いをするなら死にたい」と思った。
定年時代より
しかし、翌日往路のランナーらの頑張りで、見事逆転優勝を飾ります。
さらに、以下のように語っています。
「自分の持てる力というのは限られていると思います。もちろん選ばれるためには練習しかありません。でもやっぱり周りの支えや計らいがあってようやく力は生きてくるんです。だから周囲への感謝は忘れてはだめですね。これは自分が教える立場になってからも選手たちに終始伝えています」。
定年時代より
華やかに思われた学生時代も、故障などからやけになりアルコールに手を出したこともあったそうです。
そんな横溝さんを立ち直らせてくれたのは、周囲の励ましや優しい言葉でした。
東京オリンピック出場
大学卒業後も実業団で競技を続けていた理由は、1964年の東京オリンピック出場を目指していたからでした。
オリンピックを目指しドイツ留学をされましたが、その時の費用は就職先のシンガーミシンがバックアップしてくれました。
努力を重ねた結果、1964年に3000m障害で東京5輪出場を果たしています。
25歳でのオリンピック出場でした。
オリンピックでは、残念ながら、この時は予選敗退という結果でした。
その時の気持ちを、横溝三郎さんは以下のように語っています。
オリンピック出場という目標を達成できたことは満足している。でも、せめて決勝には立たなければならない立場。予選で落ちたことは非常に恥ずかしく、申し訳ないという気持ちがあった。それは今でも多少は悔いが残ります」
神奈川新聞より
思うような結果が出ず、一時はサラリーマンとして過ごした時期がありました。
亡くなる直前まで、東京国際大学駅伝部の監督として活躍
中年期を過ぎてまた陸上の世界に戻り、亡くなる直前まで監督として尽力されました。
中大スポーツ新聞部のインタビューでは、次のように語っています。
「人並みのことをやっていても結果は出ません。並外れた結果を出すには『少しでも人より努力すること』を忘れないで欲しいですね。陸上に限らず地道に努力を重ねてください。いつも陰ながら応援しています」
中大スポーツ新聞部より
結果を出すために、人並以上に努力を重ねてきた横溝三郎さん。
努力することの大切さがわかっているからこそ、困難や試練に立ち向かうことができたのでしょう。
「定年時代」のインタビューでは、「自分の人生に点数をつけるとすると何点か」という質問に、「満点でしょうか」と答えています。
つらいこともたくさんあったと思われますが、充実した素敵な人生を過ごされたことがわかる言葉ですね。
改めて、横溝三郎さんのご冥福をお祈りいたします。
東京国際大学駅伝部の監督ですが、今後はヘッドコーチの中村勇太さんが監督代行を務めるようです。
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